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ゴッホをゴッホにした人 「孤独な天才」を歴史へ送り出した家族

私たちが知っているのは、光を浴びたあとのゴッホ

誰もが一度は、その絵を目にしたことがあるだろう。《ひまわり》《星月夜》《夜のカフェテラス》。燃えるような黄色、うねる夜空、絵具を幾重にも塗り重ねた激しい筆致。フィンセント・ファン・ゴッホは、いまや世界でもっとも愛されている画家の一人である。耳を切ったこと。生前、作品がほとんど売れなかったこと。そして37歳で亡くなったこと。それらの出来事さえ、いまでは「狂気と孤独の天才、ゴッホ」という、あまりに強烈な物語を彩る一部になっている。しかし、私たちが見ているのは、死後に強い光を当てられたゴッホの姿だ。

フィンセント(世界が「ゴッホ」と呼ぶ前から、家族がそう呼んでいたように、ここからは彼を名前で呼びたい)本人は、自分の絵がこれほどまでに世界で評価されることを知らない。《ひまわり》の前に人だかりができることも、《星月夜》が美術史を代表する一枚になることも、自分の名前が百年以上にわたって語り継がれることも、何一つ知らずにこの世を去った。

そして、彼と同じ時代を生きた家族もまた、未来を知らなかった。

仕事は続かず、信仰にのめり込み、周囲と衝突し、本格的に画家を志したのは27歳の頃。家族にとってのフィンセントは、後世に名を残す偉大な芸術家ではなかった。生活の見通しが立たず、何かを信じるたびに極端なほど突き進んでしまう、心配の絶えない息子であり、兄だった。私たちは完成した絵を知っている。そして、世界中で貼られた「狂気と孤独の天才」というラベルを通して、ゴッホを見ている。けれど家族が向き合っていたのは、「天才ゴッホ」ではない。何者になるのかも分からない。不器用で、危うく、ときに周囲を傷つけながら、それでも何かを探しつづけていた一人の人間、フィンセントだった。

ゴッホを知れば知るほど、その人生から家族を切り離すことはできない。なぜなら、彼は孤独だったとしても、決して一人でゴッホになったわけではないからだ。

弟テオの愛。もっとも長く兄を信じつづけた人だと思う

4歳年下の弟テオは、兄フィンセントを深く愛し、その知性や感性を尊敬していた。


クレジット:テオ・ファン・ゴッホ、1888年頃。撮影:エルネスト・ラドレ。パブリックドメイン
出典:ウィキメディア・コモンズ

家族もフィンセントを心配し、ときに距離を置かざるを得なかった。そのなかで、ずっとずっと、現実的に彼を支えつづけたのがテオだった。まだ画家として認められていない時期から、兄のなかに「何かがある」と信じていたのだろう。画商として働いていたテオは、自らの収入から、画材費と生活費を定期的に送りつづけた。キャンバスも、絵具も、日々を生きるためのお金も。その支援は、フィンセントが亡くなるまで途切れなかった。テオの支えがなければ、私たちの知るフィンセントの作品の多くは、生まれていなかったかもしれない。

しかし、その関係は、美しい兄弟愛だけでは語れない。

フィンセントは経済的にも精神的にも弟へ依存し、手紙のなかで激しい感情をぶつけた。感謝や謝罪を伝える一方で、怒りや絶望を吐き出すこともあった。アルル(南フランス)で画家ポール・ゴーギャンとの共同生活を試みたときも、理想は長く続かなかった。二人の関係は破綻し、その直後、フィンセントは自らの耳を傷つける事件を起こした。自分の内側にある不安定さを抑えきれず、現実との関係は少しずつ壊れていった。その後、フィンセントはサン=レミの療養院へ自ら入院する。発作と静かな時間のあいだを行き来しながら、それでも絵を描きつづけた。

窓の外の糸杉。渦を巻く夜空。揺れる光。


クレジット:フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉》1889年、メトロポリタン美術館蔵。パブリックドメイン。
出典:メトロポリタン美術館

描くことは、かろうじて自分をこの世界につなぎとめる行為だったのかもしれない。描かなければ崩れてしまう。繰り返す発作によって現実とのつながりを失いそうになるなか、正気を保つように、彼は描きつづけた。そして、その孤独な往復のなかで、少しずつ削られていった。

テオには妻と幼い息子がいた。家庭を守り、画商としての仕事を抱えながら、兄の生活も支えつづけた。兄を愛していることと、兄を支えることに疲弊すること。それは矛盾ではなく、同時に存在し得る感情だった。それでもテオは援助をやめなかった。ときに自らも限界に近づきながら、手紙を書き、お金を送り、兄の作品を世に出そうとしつづけた。

1890年7月、フィンセント・ファン・ゴッホは37歳で亡くなる。そして兄の死からわずか半年後、病状を悪化させたテオも、33歳で世を去った。絵を描いたフィンセントは、もういない。その作品を「ゴッホ」という名の画家として世に出そうとしたテオも、もういない。それでは、私たちの知る「ゴッホ」を、いったい誰が世界へ送り出したのだろう。

その人は、テオの妻ヨーだった

ヨーは、最初からフィンセントの芸術を深く理解していた、とまでは言い切れない。1889年にテオと結婚してから、彼女がフィンセントと直接過ごした時間は限られていた。1890年5月には、南仏の療養院を出たフィンセントが、パリにある夫妻の家に数日間滞在している。6月には、テオとヨーが幼い息子を連れ、療養院を出たフィンセントが新たに暮らし始めたオーヴェールを訪ねている。そして7月6日、フィンセントは再びパリの家を訪れた。

それが、ヨーにとって彼を見た最後となった。


クレジット:ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルと息子フィンセント・ウィレム、1890年。撮影:ラウル・セセ。パブリックドメイン。
出典:ウィキメディア・コモンズ

その日の話し合いは、穏やかなものではなかった。テオは勤めていた画商を離れ、独立することを考えていた。しかし、ヨー、彼女の兄アンドリース、そしてフィンセントは、家計やテオの健康、さらにフィンセントや母への経済的援助を考え、その計画を危ぶんだ。緊張の中心にあったのは、フィンセントの身勝手さというより、テオの仕事と一家の将来だった。翌日、フィンセントはテオに宛てて手紙を書きかけている。そこには、兄弟の生活だけでなく、家庭の平穏まで揺らぎかねない状況への不安がにじんでいた。

その数週間後、フィンセントは銃弾を受け、37歳で亡くなる。そして約半年後、テオも33歳でこの世を去った。

ヨーに残されたのは、幼い息子と、まだ市場での価値が定まっていない数百点の絵や素描、そして大量の手紙だった。現在確認されているゴッホの往復書簡は計903通。そのうち、フィンセントが書いたものが820通、テオ宛てが658通にのぼる。そこには、作品が生まれる過程だけでなく、フィンセントの読書、色彩論、信仰、孤独、そして兄の可能性を信じつづけたテオの時間が残されていた。ヨーがフィンセントとの最後の時間をどう受け止め、どれほど悔やんでいたのか。その感情を、残された資料だけから正確に測ることはできない。後悔があった可能性はある。しかし、それだけを後年の活動の理由にしてしまえば、彼女自身の判断と行動を小さくしてしまう。

ヨーは日記に、テオが自分に二つの仕事を遺したと記している。一つは、幼い息子を育てること。もう一つは、フィンセントの作品をできるだけ多くの人に見てもらい、評価してもらうことだった。

そこから、彼女の長い仕事が始まる。当時、フィンセントは一部の画家や批評家から注目され始めていたが、その評価はまだ限られ、市場での地位も確立していなかった。ヨーは作品を一度に売り払わず、展覧会への貸し出しを重ね、画商や批評家へ働きかけた。作品が公共のコレクションに入るよう、売却先も戦略的に選んだ。1905年には、アムステルダムで大規模な回顧展を実現する。1914年には、フィンセントからテオへ送られた手紙を編集し、出版した。絵と手紙をともに世へ出すことで、作品だけでなく、その背後にあった思想と人生まで読まれるようにしたのである。

彼女を動かしたものを、一つの感情に決めることはできない。最後の記憶への悔いもあったかもしれない。しかし、史料から確かに見えるのは、テオへの愛、フィンセントの作品への理解、そして託された仕事を、自分の使命として引き受けた意志である。ゴッホの名声は、死後、自然に花開いたのではない。ヨーが作品を守り、選び、見せ、社会との間に道をつくった。その長い積み重ねによって、私たちの知る「ゴッホ」は、世界へ送り出されたのである。

どんな才能も、努力も、偉業も、一人では歴史になれない

絵を描いたのは、もちろんフィンセントである。あの黄色も、夜空も、糸杉も、彼にしか見えなかった世界だ。しかし、その世界を描くための時間を与えたのは、テオだった。そして、まだ価値の定まらない作品を守り、物語とともに社会へ送り出したのはヨーだった。

私たちはゴッホを「孤独な天才」と呼ぶ。たしかに、彼は孤独だったのだろう。けれど、一人でゴッホになったわけではない。家族に支えられ、ときに家族を傷つけ、それでも描く時間をつないでもらった。そして死後、残された家族によって、歴史のなかに居場所を与えられた。それを「大きな愛」と呼ぶことはできる。けれど、それは結末を知る私たちが、遠い時代から物語を眺めているから言えることなのかもしれない。当時のフィンセントの痛みは、あの時代を生きたフィンセントにしか分からない。テオが背負った苦しさも、ヨーが抱えた思いも、本当のところは本人にしか分からない。

ただ、結果として、フィンセントの絵は、彼自身がこの世界から消えたあとに世へ出た。当然、本人は何も知らない。自分の絵が世界中の美術館に飾られることも、《ひまわり》の前に人だかりができることも、何世代もあとの人間が、その人生にまで心を揺さぶられることも。才能とは、本人だけが所有する光ではないのかもしれない。その光がまだ誰にも見えないときに、信じる人。消えそうな火を守る人。そして、次の時代へ手渡す人。そうした誰かがいて、初めてその光は私たちの目に届く。

ゴッホをゴッホにしたのは、ゴッホ一人ではなかったのである。

フィンセントとテオの、目には見えない絆を、私たちはいま、時代を超えて見ている。その絆を残したのは、二人が交わした手紙だった。


クレジット:フィンセント・ファン・ゴッホからテオへの手紙、1885年4月9日。パブリックドメイン。
出典:ウィキメディア・コモンズ

声も表情も消えてしまったあとに、言葉だけが残った。百年以上の時を越えて、兄弟の愛情も、苛立ちも、希望も、絶望も、私たちのもとへ運んでくる。いつでも、どこにいても、短い言葉を一瞬で送れるようになった私たちは、いつの間にか手紙を書かなくなった。フィンセントとテオの言葉が、百年以上の時を越えて私たちのもとへ届いたように、手紙は、書いた本人が思うよりも長く、誰かの心に残るのかもしれない。

大切な人に、手紙を送りたくなった。

そして最後に、もうひとつだけ。

フィンセントが画家として生きた約10年間に、どれほどの作品を描いたか知っていますか。油彩画は850点以上、紙に描いた作品は約1,300点。合わせると、およそ2,100点にもなる。

フィンセントは、天性のひらめきだけで描いた画家ではない。27歳で画家を志してから、人物を描けるようになるために、農民の顔や手、働く姿を繰り返し描き、解剖学や遠近法も学んだ。《ジャガイモを食べる人々》の制作前にも数多くの人物研究を重ねるなど、かなり執拗にデッサンを積み重ねた人だった。その果ての見えない努力に、誰よりも近くで付き合い、まだ何者でもない兄を支え続けたのがテオだった。

描き続けたフィンセント、あっぱれ。そして、まだ何者でもない兄を信じ続けたテオにやっぱり…涙ものです。

参考資料
ゴッホ美術館|ゴッホの書簡
ゴッホ美術館|ゴッホを有名にした女性
ゴッホ美術館|家族なくして美術館なし
Vincent van Gogh: The Letters

メインビジュアル
クレジット:フィンセント・ファン・ゴッホ《麦わら帽子の自画像》1887年、メトロポリタン美術館蔵。パブリックドメイン。
出典:メトロポリタン美術館

この記事を書いた人

駒田商店

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