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太陽の塔、あるいは人類という通過点。頂点ではなく、まだ途中。
太陽の塔という体験
大阪・万博記念公園にある太陽の塔。


その外観は広く知られているけれど、内部に足を踏み入れると、その印象は大きく変わり、ワクワクが止まらない。内部は地下から上へと吹き抜ける空間になっていて、中心には「生命の樹」と呼ばれる巨大な構造体が立ち上がっています!!その幹と枝には、原始的な生命から人類に至るまでの生物が連なり、進化の過程が立体的に配置されている。その数、300体に及ぶらしい。螺旋階段に沿ってそれを見上げながら進むと、展示を見ているというよりも、長く、とても長い生命の時間の中を通過しているような感覚になる。
その光景は、圧倒的!!
だけど、下から上へと連なるその構造が、「進化の頂点」を示すものではないということは、自分自身に強く言い聞かせたい。分岐しながら続いてきた流れの中に含まれている、小さな「一かけらの自分」という事実を可視化しているに過ぎない。今この瞬間もまた進化の途中であって、現生人類だけが特別であり、例外というわけではない。


人間という現在地
食物連鎖の頂点に立ったとされる人間は、知性を持ち、環境を制御し、文明を築いてきた存在。
その過程を理解する上で、一冊の本を紹介したい。イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリによる『サピエンス全史』は、一つの視点を与えてくれる。あまりに有名な著書なので既にご存じの方もいるかもしれないですね。

この書では、人類史は大きくいくつかの転換点によって形づくられてきたとされる。なかでも決定的だったのが、約7万年前に起きたとされる「認知革命」。認知革命によって、人間は目の前に存在しないものを思い描き、それを他者と共有することが可能になった。書の中では、こうした概念を「虚構」と呼び、その虚構を共有する力こそが、人類の協力関係を拡張させた要因のひとつだとされている。たとえば、神話や宗教、あるいは集団としての帰属意識。物理的な実体を持たないにも関わらず、それらを信じることで、人間は血縁や直接的な関係を超え、まとまりを形成し、共に行動することができるようになったのだと。
実体はない。だけど共通認識として、みんなで信じている、この「虚構」(例えば国家もそうですよね)を扱う能力こそが、人間を他の種から際立たせたことは確か。現代を生きる私たちは、まさにこの虚構の上で、それ自体に大きな違和感もなく、当たり前のように生きている。なんとも不思議な生き物だなと思います。笑

揺らぐ前提
そして今、技術の進展によって、人間の特性とされてきた知性や判断の領域も、少しずつその境界を失いつつある。「人間であること」の前提そのものが、揺らぎ始めている気がしてならない。太陽の塔の生命の樹が示しているように、これまでも生命は、現れては消え、また別の形へと移行してきた。そうであるならば、ホモ・サピエンスがこの先も同じ形で存続し続けると思い込む根拠も、実はどこにもないのかもしれないですよね。人間は、完成された存在ではなく、流れの中の一状態に過ぎない。
視点の変換
「生命は、絶滅するために生まれてくる。」と捉えてみる。と言うと悲観主義的に受け取られるかもしれないが、決してそういった意味ではないです。
ホモ・サピエンスもまた、やがてはこの星の一部へと還元されていく存在。
生物としての自分やこの世界を、より大きなスケールで捉えることができれば、日常の中で固定されがちな主観的な思考や感情は、少しずつ相対化されていく。マクロな視点を持ち、メタ認知ができれば、人ならば誰もが経験する、息苦しさや時に行き場を失うような感覚も、内側だけに留めるものではなく、外へと抜けていくものとして扱えれるようになる気がする。私たちは、流転していく中の一部であり一瞬に過ぎない。
だからこそ、自分という存在に固執しすぎず、過去や未来に過度な意味を与えすぎてしまうのをやめて、ただ流れの中に身を置く。そんな在り方もまた、一つの美しい生き方として成立するのだと思う。それは、「今」に全力集中する生き方にも繋がるような、一つの視点だと感じます。
一見、悲しい響きを持つ「絶滅」という言葉も、見方を変えれば、完美な衰退。
美しくて儚いこの世界を、一瞬たりとも見逃すことなく、共に生きていきましょう。
この記事を書いた人
駒田商店