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神無月に、三輪山を想う― 人はなぜ自然に神を見たのか ―
神無月。
八百万の神々が出雲へ旅立つといわれるこの季節、ふとそんな問いが浮かぶ。「見えないものを信じ続けてきた人の心の奥には、いったい何があったのだろう。」見えないものを信じ始めた、その始まりとは?そもそも見えないものではなく見えていた?十月(旧暦)は「神無月(かんなづき)」と呼ばれるのは誰もが知るところ。全国の神々が出雲に集い、人の“縁(えにし)”を語り合うとかとかとか!この国の人々は、古くから自然の中に神を見て、その気配とともに生きてきたんですよねぇ。(現代人はどんどん薄れていってるのかな‥‥涙)そして出雲といえばですが、個人的にはファンタジーアニメ『神在月のこども』が大好きです!!


自然の前で、人は祈ることを覚えた
昔の人は、ざわめく風に、雨のしずくに、稲の実りや雷鳴に、あらゆるものに「神」を見たのでしょう。八百万の神ですものね。それは畏怖。恐れでもあり、感謝。喜びでもあった。文明の発達はまだまだでしたし、自然の脅威の中で生き延びるために、自然に味方してもらうことは必要不可欠。祈りとは、自然と人とが共に生きるための“約束”のようなものだったのかな?とも思えます。
大和国一の宮、三輪明神へ
奈良・三輪の地。ここには「日本最古の神社」と伝わる大神神社(おおみわじんじゃ)がある。遠い神代の昔、大国主神が自らの幸魂・奇魂(すなわち和魂)を三輪山に鎮め、御祭神は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)として祀られたのが始まりとされるそうです。本殿はなく、拝殿の奥にある三ツ鳥居を通してご神体である三輪山を拝みます。「原初の神祀りの様」を今に伝える、特別なかたちですね。

山に入るということ
なんとなんと三輪山への登拝も出来ます。境内にある狭井神社で朝九時から正午までに受付を済ませなければならない(今回は間に合わず断念。気持ちは登拝)のですが!山中では撮影も飲食も禁じられ、ただ静かに歩く。ここからは想像の世界ですが・・木々を駆け抜けていく風の音、歓迎なのか、追い返したいのか鳥の声、山の健康を司る土を踏む感触。おそらく、そのどれもが自分の内側に響いてくる。一歩ごとに、外の世界の喧騒が遠のいていくんだろうな。
ところで拝殿の奥には、珍しい三ツ鳥居があるといいます。現世と神域を隔てる三重の結界なのか。益々、想像を駆り立てられます。結局のところ、祈りはとても普遍的で、人間の本能そのものなのでしょうね。神様は、どこか遠くにいるのではなく、風の中に、木の葉のゆらぎの中に、そして誰かを想う私たち心の中にこそ、いるのかもしれない。

山を下りて(想像の中で登拝してきました)
神無月の空の下、未だ登れていない三輪山を仰ぎながら思う。神とは、自然の中に宿る「生きる力」そのもの。自然がなければ、人は酸素を吸うこともできず、ドクドクと打つ、この鼓動は止まってしまう。祈りとは、それに気づくための行為であり、自分の中の“神”に出会うことなのかもしれない。


そして、ふもとの味。山を下りて三輪駅へ。駅の真ん前に、ポツンと佇む売店のような、喫茶のような、なんとも味のある小さなお店がある。あるんですよねぇ、吸い寄せられるように立ち寄ってしまうお店。そして買うよねぇ。やっぱり。三輪といえば三輪素麺。あたたかい出汁に細い麺がほどけていく。にゅう麺は飲み物。(ちゃうちゃう。ちゃんと噛んでや!)祈りのあとの身体にストンと降ってくる。あぁ、全ては在る、と。在るものに目を向けられなければ心は乾く一方だ。にゅう麺にも山の緑にも、取り巻く全てに感謝しよう。

この記事を書いた人
駒田商店