food

food

戦国のリアルと、一粒のお餅。戦う時代から届いた甘さ

お店を紹介したいのですが、その前に少しだけ、世界の見え方を広げるための歴史の話をさせてください。

今回は美味しいお餅を紹介したいのですが!!その前に少しだけ歴史の話をしてみたい!!

歴史は好きですか?戦国時代は好きですか?

リベラルアーツは、「正しい言葉で自分を知る」ための一つの方法だと思っています。自分の観点を、可能な限り増やしていくこと。世界が何層にも重なったグラデーションでできていると想像できるなら、見える景色もきっと少し変わってくるはずです。物事には一つの正解だけでなく、立つ場所によっていくつもの見え方があると気づけるからです。烏滸がましいかもしれませんが、多くの観点を持つことで、結果的に誰かの役に立てたり、誰かに優しくなれたりするかもしれない。人はみんな、自分の眼鏡でしか世界を見ることができません。だからこそ、自分には当たり前に見えていることが、相手にはまったく違って見えている場合もある。一番愚かなのは、そのことを知らないまま、誰かを傷つけてしまうことだと思うのです。自分が愚かかもしれないと知ることから始めたい。

歴史から今を学び、そこからメタ認知へとつなげていく。そのために、これからもさまざまなことを学んでいきたい。学ぶことに、年齢は関係ありません!

戦国武将はなぜ戦い続けたのか。その理由を、もう一度考えてみる

ドラマの影響でしょうか。どことなく煌びやかな印象がある戦国時代。そもそも、戦国武将はなぜ戦っていたか知っていますか?

かっこいい戦国武将!歴史に名を残す人物たちの強烈なキャラクター。私たちは憧れ、羨望のまなざしを向け、「推し」さえ生まれます。しかし、当の本人たちは、名を馳せるために戦っていたのでしょうか??きっぱりと言います。違います。

当時の社会が、公家・寺社家・武家の三つの枠組みで成り立っていたことは、学校の授業でも学びましたよね。それぞれ役割は異なりますが、この三つに共通して言えることがあります。
いずれも「土地」を持ち、そこを基盤に運営されていた、いわば現代でいう経営主体だったということです。経営者!!

つまり当時の社会は、土地を持ち、その土地から生まれる収穫によって、人と組織を維持するという共通構造の上に成り立っていました。そして、その時代において最も重要な資産は、「人」と「土地」でした。しかしそれらは、簡単に増やすことのできるものではありません。新たに開拓できる土地はほとんど残されておらず、人の数もまた限られていました。

戦う集団、仕える集団というイメージが強い武家もまた、領地を持ち、そこから収入を得て人を抱える存在でした。傭兵ではありません。領地を経営し、組織を維持する主体だったのです。
領地を経営するとは、この時代においては、「生きていくための食べ物を育てること」を意味していました。そして、ここが本質です。当時の日本列島では、耕すことのできる土地、つまり作物が収穫できる土地は限られていました。土地こそが、生きるために不可欠なインフラだったのです。

ここで改めて。では、彼らはなぜ戦っていたのか?

ここまで読んでくださった方には、もう答えは見えているかもしれません。彼らは、自分の領地を守るために戦っていました。領地を広げて名を馳せるためでも何でもなく、防衛戦です。先に動かなければ奪われる。相手を有利にさせないために先制して戦う。まさに「攻撃は最大の防御」という構造の中に、彼らは置かれていて、もはやゾンビのように戦っていたといっても過言ではありません。

土地が豊かさであり、同時に生きることそのものでした。戦えば死ぬかもしれない。しかし、戦わなければ確実に奪われ、飢え、生きていくことができない。それが戦国時代という現実でした。そのような時代において、歴史に名を残した戦国武将たちは、圧倒的に強く、優秀で、そして想像を超えるほど苛烈な判断を下してきた人々だったといえます。現代人から見れば狂気の沙汰に思える判断も、当時を生きた人々にとっては生き抜くための日常的な判断だったはず。その意味で言えば、「飢餓」そのものが、当時はデフォルトでしたから…。

裏切りが日常だった時代、本能寺の変と中国大返しが示した戦国というリアル

そんな戦国の世を象徴する人物の一人といえば!!織田信長でしょう。残虐性ばかりが語られがちですが、当時の武将は信長に限らず誰もが苛烈でした。それほどまでに、生き残ること自体が厳しい時代だったのです。信長はとにかく実力主義で知られています。生まれや家柄に関係なく、実力のある者を評価し、信じて登用しました。その代表的な存在が、のちに天下人となる豊臣秀吉や、重臣として厚い信頼を得ていた明智光秀ではないでしょうか。

しかし1582年、信長は本能寺の変によって、最も信じていた光秀の謀反に遭い、最期は自ら火を放ち自刃します。

「是非に及ばず」もはやどうすることもできない。冷静さと諦観と、そして人生観を感じさせる最期の言葉。戦国時代そのものを象徴しているようにも思えます。

このとき、中国地方で毛利軍と対峙していた秀吉にも、少し焦点を当ててみます。光秀の謀反によって信長が討たれたことを知った秀吉は、直ちに毛利氏と和睦を結び、全軍を率いて京へと引き返します。いわゆる「中国大返し」です。備中高松城から山崎まで、およそ200キロ。この距離を7日から10日前後で移動したとされ、その進軍速度は当時としては異例の速さでした。装備の一部を船で輸送し、兵の移動を軽くしたことや、各地で補給体制を整えていたことなどから、秀吉がロジスティクス、すなわち兵站に非常に長けた人物だったことがうかがえますよね。こうした後方の統括には、弟・秀長が深く関わっていたともいわれていますが。

何より感服させられるのは、訃報を知った直後に停戦をまとめ、即座に行動へ移した、秀吉の判断力と実行力でしょう。こうして京都・山崎で光秀軍を破り、歴史は再び大きく動いていくこととなります。

何度も申し上げますが、本能寺の変は誰もが知る歴史的事件ではあるものの、これもまた戦国時代に起きた数多くの出来事の一幕にすぎません。後世から見れば歴史を大きく動かした大事件ですが、当時を生きる人々にとっては、決して特別な例外ではありませんでした。生き残るために裏切り、裏切られる。そうした出来事そのものが、戦国という時代の日常、いわば“デフォルト”だったのです。

この過酷な時代を自分が生き抜けますか?と問われれば、私は即座に「無理です」と答えると思います(笑)。仮にタイムトラベルしたとしましょう!一日も持たずに命を落としてしまう自信があります。

ちなみに、日本史では三英傑の人物像を説明する定番のたとえとして、「鳴かぬなら――」で始まるホトトギスの句がありますよね。もちろんこれは後世に作られた象徴的な表現ですが、正直に言えば、当時の現実はそれほど悠長なものではなかったはずだと、少なからず、いや、大いに感じています。ぶっちゃけ、三人とも「信長」の句に近い判断、決断、そして実行をしていたと言っても過言ではないでしょう。現代の感覚から見れば、明らかに苛烈で、時に残酷とも言える選択が、当時の日常の中には確かに存在していたはずです。

今さらながら本題です。戦国の只中から続く和菓子屋、本家菊屋の一粒に込められた時間

そんな狂気に満ちた時代にも、甘いものが存在しました。

奈良・大和郡山に店を構える本家菊屋。天正13年(1585年)、本能寺の変から三年後、秀吉が関白となったぐらいの年に創業したとされる和菓子店です。豊臣秀吉、そして大和国を治めた弟・豊臣秀長とゆかりがあり、郡山城の城下町が整備されていく時代から菓子を作り続け、約440年の歴史を重ねてきました。

きなこをまぶした、一口サイズのあんこ餅菓子!!冗談抜きで100個食べられる!!そしてお店の天井には餅型が沢山!!


領地を守るために命をかけて戦っていた時代。明日を生きられるかどうかも分からない混沌の中で、甘いものはきっと「夢の食べ物」だったことでしょう。そして、そのような時代にも、甘いものを作り続ける人たちが確かに存在していたのです。

本家菊屋のお餅を食べながら、戦国という激動の時代に思いを馳せることしかできませんが、同時に、いま自分がどれほど恵まれた環境に生きているのかを強く感じます。前章とは逆に、信長公や秀吉公がタイムトラベルしてきたならば…きっとこう言うと思うのです!!

「誰も襲ってこないんだ?」
「ボーっとしていても刺されないんだ?」
「何も盗まれないなんて!」※これは現代でも海外から言われる
「食べるもので溢れている!美味しいもので溢れている!」
「なんて平和で幸せなんだ!!」

余生があるのではない、与生があるだけ。いつだったか街で見かけたその言葉が、ふと浮かびました。いつの時代にも通じる真理なのかもしれません。

こんなふうに、たまたま出会った一粒の餅に込められた長い時間から学びを得たり、静かに過ごしてみたり、いま目の前にある日常を大切にしていきたいな、と思いました。歴史を知ることも、こうして日常の中にある小さな出来事から何かを感じ取ることも、きっとすべては、自分の見ている世界を少しづつ広げていくための営みなのだと思います。

この記事を書いた人

駒田商店

back to list

related journal